「さて、そろそろ頃合いだな」
男は端末を取り出し、慣れた手つきで操作を始める。タブを開き、電源を入れ、外部、つまりネットへの接続を始める。
「・・・」
こびりついて、消えることのない記憶が、何度も何度も心を蝕む。使い捨てのスケープゴート、誰でもない誰か。それが全ての始まりで、歪みの根源だ。
──画面が不意に切り替わる。無数の画面は、スラム中に配置したカメラから送られてくる映像をしっかりと映し出している。
「・・・さて、始めるか」
カメラの正常な作動を確認してから、ワンは端末を一度だけ撫でた。
STREAMINGの文字と共に、現代のタブーと化した秘中の秘、スラムの映像はいとも簡単に全世界へと流れ出た。同時に端末の画面には装置の正常な作動を示す記号の羅列が現れる。程なくして、小惑星の毒は街へとばら撒かれる。
「──ま、奴らが大人しくしてる訳はないよな」
ワンは一人呟くと、縦長の巨大なトランクケースを担いで部屋を後にする。
こんなシステムに則った、機械的な殺戮を本気で望んでいるわけじゃない。
なぜなら、彼が願うのはもっと愛に溢れた復讐なのだから。
「自分の手で、やらなきゃな?」
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切り立った丘、スラムを一望できる場所で三羽烏、もとい三匹猫は愛機を寄せ合って事の成り行きを見守っていた。それぞれが与えられた役割──毒を無力化する薬品の散布をしっかりとこなし、客観的に見て自分がこなせていたかを、まるでテストが終わった後に集まって問題の品評会をするみたいに確認していた。口々に自分がどれだけ美しく、また格好よくコーナーを曲がったか、裏路地を抜けたか、なんて話をして、やはりここでも競い合っていたのだが、やはり奥底にある不安は三者三葉、それぞれの口調からも滲んでいた。
──突然、全員のブザーが鳴る。
「!」
これは合図だ。
今から毒の散布が始まる。ひりつく緊張感はピークに達した。
「・・・お、おい、大丈夫、だよなぁ?」不安そうに零すミケ。
「・・・わからんな。こればっかりはよぉ、何も言えねぇよ」曖昧に濁す茶トラ。
「・・・」
それきり、誰も喋らなかった。ブザーの音が止む時まで、三人はひたすら身じろぎ一つせずに待った。曇り空で分かり辛いが、どうやら日が暮れてきているようだった。遠雷のような烏の声が殊更不安を誘った。
──ザザッ。
「お、おい、今の無線の音だろ !誰のだ !?早く出ろよ !?」
「落ち着け、ミケ。俺のだ、今出る」
言いながら、手が震えているのが分かる。ミスはないか、本当にミスはなかったのか。
もしあったなら──、それ即ち死なのだ。
「・・・も、もしもし」
──あ、クロ !!私、シロだよ !ワタルも一緒にいる !
「シロ !!ワタル !!お前ら今どこに !」
──え、どこって、中心街だけど・・・
「な、大丈夫なのか !?」
──うん !全然大丈夫だよ !何か水みたいなのがいろんな所から噴水みたいに吹き出たんだけど・・・。
「水・・・ !てことはつまり・・・」
警備員さんが言っていた。毒は本来黒い液体だが、無毒化することで無色透明に変わる、と。
──そう !成功だよ !
「・・・はぁぁぁぁ、そうか」
思わず大きな息が洩れた。自分がこんなに息が詰まっていたのかと驚くほど、長く強い息が肺から流れた。
「は、ははっ !まあ当然だな !この俺がやったんだ、失敗なんざ有り得ねぇよ !」一転して調子づくミケ。さっきまでの憔悴ぶりが嘘みたいだ。
──あ、ミケもいるんだね !
「いるぜぇ !シロちゃぁん !まさにこの俺が、今回のMVPだぜぇ !!」
「へっへ、ブルってたやつがよく言うぜぇ」
「っせぇ !!黙っとけ !!・・・それでぇ、シロちゃん?俺ってば、今回ちょっと、いや結構、いやいや相当頑張ったと思うのよぉ」
──・・・。
「だからぁ、そのぉ、ご褒美としてぇ、デート、とかしてもらえたりするかなぁ !」
──・・・。
「・・・あ、あれ?シロちゃん?」
──・・・。
「?おい、シロ大丈夫か?」
──・・・なんで。
「あ・・・?」
──そんな、全員動けないはずなのに・・・。
「おい、どうしたんだ !」
──兵隊さんが、銃を持った兵隊さんたちが、こっちに・・・。
ノイズと共に通信は切れた。無線機はまるで死んだように何の音も発さない。
「おい、おい!!シロ !!」
どれだけ叫んでも、呼びかけても返ってこない応答。
「・・・」
三人は誰が何を言うでもなく、マシンに跨りエンジンをフルスロットルにする。
およそ作戦行動に必要な情報共有、行程確認など一切を捨てた。あるのはただ一つ。
──一刻も早くシロの元へ。
一度は救ったはずの街へ、三本の煙線は轟音と共に突っ込んでいった。
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「・・・おかしい」
警備員は違和感を覚えていた。何かがおかしい。
屯所の兵士は全て取り押さえた。想定よりも多い人員を全て、余すことなく縛り、閉じ込めた。何の異常も、問題も発生しなかった。
抵抗もなかった。
「・・・」
喜ばしいことのはず。だが、もちろん事はそう簡単なことではない。
「・・・ !無線、ですか」
身体に内蔵された受信機が、自分あてに向けられた電波を感知し信号を発する。
このパターンは──、クロのもの。
「どうしましたか」
──警備員さん、何やってんだ !
クロの声は焦燥と風切り音で聞こえ辛かったが、内容は判別できる。
「何?何とは一体──」
──兵士だ !中心街に向かっていてるらしい。シロとワタルが取り残された !
「・・・!」
伏兵。勿論、可能性としては考慮していた。しかし、それすらも抑えこめたはずだと、ある意味高を括っていた。数字として元より計上されていた人員よりも多い兵士たち。いかにもな場所で隠れ伺うようにその時を待っていた兵士たち。てっきりそれが伏兵の全てなのだと思っていた。そうではなかった。
「・・・今から全力で向かいます。アナタ達は──」
アナタ達は、何だ。何が出来る?何を頼める?彼らは立派に自分の仕事を成し遂げたじゃないか。これ以上、何を求められるというのだろう。
──どうした?何かあったのか !?
「・・・」
無理だ。もう、打つ手はない。
──おい、俺らはどうしたらいい !あっちに着いて、何をすればいい !
「・・・ぁ」
クロの声は真剣だった。まだ先があると、手はあると、そういう微かな希望を抱いている声だった。だが、そんなものはない。気休めなど言ったところで何の意味もない。
「・・・」
言葉が出なかった。記憶領域は感情に呼応して共通項を見つけ出す。過去、仕えていた少年の姿がオーバーフローする。
──ケビン !僕のケビン !
プログラムされた忠誠かもしれない。植え付けられた愛執かもしれない。だが、それは紛れもなく身体の内で渦巻く激情だった。
無くしたくない。失くしたくない。亡くしたくない。
神などいない。そんなことは身に沁みてわかっている。
けれど、もし。
計算外の可能性のことを、そう呼称することが出来るのであれば。
「・・・神様、どうか助けてください」
──・・・。
何も変わらない。願ったところで打てる手はなく、やれる事もない。
新たに出来ることはないのだ。
もし、あるとすれば。
──あー、テステス。聞こえてんのか、これ?
「!」
もう既に為されたことだけなのだ。
──こちらエンドウ。保安官のエンドウです、どうぞ。
エンドウ。治安や統率という概念の希薄なスラムにおいて、保安官という治安維持を目的とした役職についている変わり者。暴れるクロ達をオンボロ車で年中追い回す、いわば黒猫党の天敵である。
──あぁ!?テメェ、こんなとこまで追っかけてきやがったのか !?今はそれどころじゃねえんだよ !
──こっちのセリフだ、クソガキ !俺だってお前に構ってる暇はねえんだ !
「・・・エンドウさん」
──おお、警備員さん。アンタ、今どこにいる?
「街の外れの屯所です。これから中心街へと向かおうかと・・・」
──いや、アンタは来なくていい。こっちは何とかする、っていうか何とかなるはずだからな。
「・・・!」
──何とかなる、だぁ !?おい、そりゃ一体どういうことだよ !
──はっ、ガキにゃあ分かるめえよ。ともかく、警備員さん。アンタは東の丘に向かってくれ。・・・右腕は使えるよな?
「右腕・・・、はい、使えます」
──よし、ならいい。・・・あとクロ、お前バァから何か貰ったりしたか?
── !ああ、貰ったよ。黒い箱みたいな。
──わかった。じゃあ、お前も警備員さんと合流しろ。
──あぁ !?なんでテメェに・・・。
──おい、やるべきことを間違えんな。ガキも大人もねぇ、一人の人間として言ってるんだぜ。
──・・・ちっ。わーったよ、クソが。
──よし、じゃあミケと茶トラは中心街、クロと警備員さんは丘へ向かってくれ。頼んだぜ。
「エンドウさん !時間がないのは承知ですが、理由をお聞きしてもいいですか !私たちが街から離れる理由をお聞かせください !」
──あー、詳しいことは俺もわかんねえんだが・・・。まあ、ざっくりいうとだな、撃ち落としてもらいたいんだと。
「撃ち落とす?何を」
──ロケットだよ、ロケット。
「・・・は?」