「全く・・・、悪ガキがとんでもないことをしてくれたもんだねぇ」
皺くちゃの顔がさらにくしゃりと歪んだ。バァは取り巻きの男に指示を出すと、赤々とした液体の注がれたグラスを受け取り、それを呷った。
東都スラム第四区、俺たちがいつも標的にしている地区の長である老婆・バァ。俺は全身を縛られて彼女の家兼、議会所の床に転がされていた。
「バァ、殺すならさっさとやれよ。オトシマエをつけんだろ」
「黙りな、クロ坊。あんたなんか殺して何になるってんだい」
「そういう決まりだろうが。俺がとちって捕まったんだ。殺される覚悟はできてんだよ」
「なぁにが殺される覚悟だ。命がけで何かしたこともない奴が、そんな安い言葉を吐くんじゃないよ」
「あぁ!?てめぇ!やってみろよクソババァ!」
「言いやがったなこのガキ!前から怪しかったがついにババァって言いやがった!おい!さっさとこのガキ黙らせな !」
バァは手を叩き、取り巻きにそう言った。すぐさま俺は抱き起されて乱雑にテープで口をぐるぐる巻きにされた。
「・・・いいかい。人ひとりの命なんてゴミみたいなもんなんだよ。戦争があったからじゃない。そのずっと前からそうなんだ。偉人だろうが大犯罪者だろうが、死ねばただの屑さ。残るのは人じゃない。人が残した情報であり、文化だ。そして、文化は社会で生まれ、社会には存続のためのルールがある。わかるかい?アンタはそれを破ったんだ」
「・・・?」ルール?いったい何のことだ。
「覚えがないって顔だね。そりゃそうだ。言ってないもの。なんで言わなかったって?そりゃ、アンタはまだ子供だもの」
「・・・!!」
力を入れて身体を捩ると、紐はさらにきつく食い込んでくる。
青い怒りが身を焼くのを感じる。幼いとわかっていても、どうにも抗いがたい。
「ははっ、怒ったかい。そういうところなんだ、子供だっていうのは。わかってんだろ?確かにアンタはガキにしちゃ利口さ。だが、所詮それまで。アタシからすりゃあね、アンタはどこにでもいる、ただ健全に世界を憎んでるだけの可愛いガキんちょさね」
「・・・」
「今日はもう帰んな。ペナルティはなしだ」
「え、ですが・・・」エンドウが意表をつかれたような声を出す。
「もう一度言わせるのかい、同じことを」
「い、いえ!」
「バイクがないんだろう。エンドウ、区画の端っこまで送ってやんな」
「わ、わかりました」
縛られたまま、エンドウとバァの取り巻きに抱えられて連れていかれる。
首を動かせないから目玉を限界まで捻じってバァを睨みつけた。バァは目を逸らさなかった。最後まで俺を見ていた。
「・・・あのガキは一体どうなってるんだい。可愛げなんかありゃしない」
『──おや、さっきは可愛いって言ってましたよねぇ』
バァの眼前、空中にスクリーンが浮かび上がる。スーツに天然パーマの男がバァに話しかける。明らかに寝不足の顔、無精ひげの口からは電化製品のモーター音のように一本調子の声が流れている。
「言葉の綾さね。役所に勤める人間ってのはどうしてみんな読解力がないのかね。アタシは心配だよ、この国の将来が」
『心配無用ですぅ。読解が必要なコミュニケーションをする無能は、生憎同僚にはいませんのでぇ。──それに、アナタの国ではありません。私たちの国にアナタ達はいません。ていうか、まさにそういう話でしょ、今は』
男の声がもう一段階低くなる。咎めるような色が感じられる。
「わかってるよ、うるさいねぇ。・・・こんな年寄りを仲間外れにして楽しいかい?」
『楽しくないですよぉ。てか、どーーでもいいですぅ。アナタが百歳だろうがゼロ歳だろうが、それが仕事なら僕は話しますぅ。話しますし、そこらへんの線引きはしっかりします、仕事なのでぇ』
「へっ、若造が知ったように」
『若造ですいませぇん。で、おたくの子供が“仕切り”に近づいた件なんですけどぉ、これは事実で間違いないですよねぇ?』
「嫌な聞き方だね。どうせ裏は取れてんだろう?」
『もちろんですぅ。ばっちり録画出来てるので、今はアナタが認めたっていう確認が欲しいだけですぅ。・・・あ、これ録画してるって言いましたっけ?』
男が画面枠の下を指差すような仕草をした。
「変な気を回すな、気色悪い。そんなことわかってるよ」
『はい、それでえぇーっとぉ、それを目撃した区民がそこそこいたんですよねぇ。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯だったのでぇ。で、ここからが一番問題なんですけどぉ、うーん、見てもらった方が早いかぁ』
男は指を空中に走らせると、自分の横にもう一つ画面を表示させた。
どうやら監視カメラの映像のようだった。フェンスの向こう側に泥だらけのクロがいて、それをまるで観客のように眺める群衆が映っている。
「・・・胸糞悪い」
『再生しまぁす』
もう一度空中をなぞると、静止画だった画面が動き始める。音の割れた喧騒がスピーカー越しに響く。
──おい!お前だよ、お前。・・・そうだよ、そこのお前だ。
クロの声だ。掠れていて聞き取り辛いが、確かにそうだ。
──おい、お前は自由か?
「・・・!」
動画はまだ続いているようだったが、男はそれを止めて画面ごと消した。
『困るんですよねぇ、こういうのぉ。出てくるならまだしも、こうやって語りかけるのはぁ。わかりますよねぇ?』
「・・・ああ」
『売国奴であるアナタ達が今日まで見逃されているのはぁ、そうするだけのメリットがあるからですぅ。こちらに危害や混乱をもたらすことが何を意味するかはわかりますよねぇ?無主地だから手を出せないとでもお思いですかぁ?・・・あ、それがお望みなら、すぐにでも手を引きますよぉ。てか、引いちゃいますよぉ?』
男の口調は変わらない。しかし、そこに含まれる圧力は数分前の比ではなかった。
「・・・悪かったよ。言っとくから、もういいだろう」
『・・・わかりましたぁ。でも次はないですからねぇ』
そう言って男は通信を切ろうとする。
「・・・なあ、アンタ」その寸前に呼び止めた。
『?なんですかぁ?』
「アンタは、自由かい?」
『・・・必要ですか?それ』
ぶつりと通信は切れた。男の言葉が残響としてバァの鼓膜に繰り返し留まる。
「・・・どうだかね。アタシはもうその味を忘れちまったよ」
微かに震えた声はきっと、老いのせいだろうと、バァは思った。