民意とは、伝染病だ。
熱を持った誰かが発したものが、知らないうちに身体の中に入り込み、思考や行動をゆっくりと侵していく。恐ろしいのはその感染経路だ。
民意は空気感染する。もっと言えば、“空気”を感染させる。
人から人へ、街から街へ、国から国へ。それが世界平和や慈善の心であっても、敵意や殺意といった害意であったとしても、民意に感染した空気は社会に蔓延っていく。それはやがて巨大な一つの生き物のように胎動を始め、小さな個では抗いようがないほど、どうしようもない力になる。
もし、それを打ち倒したいと願うのならば、その方法は一つしかない。
──新たな病原菌を伝播させなければいけない。
錆び付いたマフラーからは、ぶすぶすと情けなく黒煙が上がる。気合を入れなおすようにハンドルを捻ると、頬に当たる生暖かい風が少しだけ勢いを増した。砕けたアスファルトを馬力不足のタイヤが跳ね飛ばす度、身体はガコリと跳ねて、額のゴーグルとヘルメットが軽快な音を奏でる。ゴーグルをつけないのには理由がある。カッコいいからだ。
「ねえ、クロ!もっとゆっくり走ってよ!お尻が痛い!」
背中にしがみついたシロが耳元で叫ぶ。
バイクが跳ねる度に悲鳴を上げるから鬱陶しいったらありゃしない。
「お前、なに言ってんだ。どこの世界にチンタラ逃げる盗人がいるんだよ」
「そんなこと言ったって・・・、きゃあっ !んもぉ !このままじゃ着くころには潰れてぺったんこになっちゃう!」
「おーおー、なっちまえ。お前の減らず口にゃ、こっちもウンザリしてんだ」
「なっ・・!そんな言い方!後で覚えときなさいよ!・・・きゃあっ!」
「おいお前らぁ !ちゃんとついてきてっか!」
後ろに届くように大きな声で叫ぶ。
「おうおう!ぴったり後ろにいるぜぇ!」
ガラガラの声が右側から聞こえた。目視できる距離だが、声はやけに遠くに聞こえた。
まだ十四なのに、三番街の飲んだくれジジイみたいな声をしている。名前はチャトラだ。
「大丈夫かぁ?こないだみてぇにエンストすんなよ!」
「へっへ!そりゃおめぇ、大丈夫だよ!今日はちゃんと点検してきたからなぁ!」
チャトラは大きな腹を揺らして笑った。
「てめー、クロォ!シロちゃんに変なことしてねぇだろうなぁ、コラァ !いっつもお前ばっかり良い思いしやがって、クソが!」
チャトラの逆側、グンとスピードを上げて並走してくる影がある。
塗装のまばらに剥げた(本人は迷彩柄と言い張っているが)バイクは唸り声のような派手なエンジン音を上げている。
「ああ!?んな訳ねぇだろっ!そんなに欲しけりゃくれてやるよ!オラ!もっと寄ってこいよぉ !ミケぇ !ビビッてんのかぁ!?」
ミケの癖のある長い黒髪がヘルメットからはみ出して、なんだかマフラーみたいになびいていた。もちろん、バイクの方じゃないやつだ。
ギョロリとした大きな目がこちらを睨む。
「てめ、馬鹿やろぉ!シロちゃんにそんな危ないことさせんじゃねえよぉ!!」
「そうよ!ミケに乗るくらいなら、私、クロがいい !」
「おぉい!シロちゃぁん!なぁんで俺はダメなんだよぉ!!」
「へっへ!そりゃぁおめぇ、クロの方がイカしてるからに決まってんだろぉ」
「チャトラ、てめーは黙っとけ!あぁぁぁ、どっかから急にエロくて俺にベタ惚れの女が生えてねえかなぁ!!」
「おい!うるせぇぞお前ら!喋ってる暇あんなら運転に集中しろ!ほら、ケツに追い付いてきたぜ」
風切り音の向こう側で四輪自動車の低く重い駆動が近づいてくる。拡声器越しでノイズ交じりの声が二輪に跨る少年たちに警告を飛ばす。
「止まれ!お前ら!今日という今日は許さんぞ、コラァ!」
保安官のエンドウは今日も今日とて性懲りもなく追っかけてくる。空気の抜けかけたタイヤはベコベコと間抜けな音を立てていて、そのせいで俺たちのオンボロバイクにも追いつけない。ここ一年、ずっとあのままだ。直そうにも金も素材もないんだろう。
「・・・」
お互い、大変だな。色々と。
そんなことを思う。エンドウがガラクタ車で俺たちを追っかけるのも、俺たちが盗みをしてるのも、結局は全部、戦争のせいなんだ。
チラリと右後方に目をやる。上空に浮かぶ灰色がかった球体が不気味に回転を続けている。アレは象徴だ。混乱と混沌の象徴。世界をひどく歪めてしまった象徴なんだ。
俺たちが抱えるこのどうしようもない衝動も、きっと。
「・・・?どうしたの、クロ」さっきよりも、もっと耳元でシロが囁く。
「いや、なんでもない」
それだけ言って、ハンドルを限界まで千切れるほど回した。主人の横暴に悲鳴を上げるように機体が震える。エンドウの怒号が遠くに霞んでいく。
──東都スラムには今日も、乾いたエンジンの音が響く。