執事となってから数ヶ月が経ったある日、ケビンはエメリーに呼び出された。
いや、呼び出された、という言い方は語弊があるかもしれない。ケビンは常に少年の傍にいたし。その点に於いてケビンは至極真っ当に業務をこなしていた。であるならば、エメリーが呼び出した、というよりは、いつもとは少し毛色の違う要求をエメリーから提示された、という方が正しいかもしれない。
それはともかくとして、少年の要求はこういうものだった。
「ケビン!メンテナンスをしよう!」
「なぜでしょう。動作不良はありませんが」
「これから起きるかもしれないだろ !メンテナンスっていうのはそういうのを防止するためにするんだぞ」
「でしたら、日に二度、トラブルシューティングとクリーンアップは行なっておりますので──」
「あー、もう!いいから!メンテナンスをするぞ!これは命令だ!」
「・・・承知いたしました」
二人は工房に向かった。しばらくしてトーマスが合流し、ケビンはメンテナンスを行うため、しばらくぶりのガラスケースの中に入ることになった。
「・・・質問をしてもよろしいでしょうか」
「どうした?ケビン」
「メンテナンスにあたって、手足を固定する意義を問います」
ケビンは手足のパーツをガッチリと固定され、磔のような形でケースの中で浮いていた。
「あー、えっと・・・。トーマス、何かある?」
「・・・そうですね」
「「「・・・」」」
沈黙。
「──再度、お尋ねします。メンテナンスにあたって、手足を固定する意義をぉぉooo──」
突然、ケビンはがっくりと糸が切れたようにうなだれる。
「あ!コラ!トーマス!急に電源を切るな!!」
「おっと、私としたことが。申し訳ございません。ですが、急に振られるものですから、少々驚いてしまいまして」
「嘘つけ!しっかりパスワードを入れていたじゃないか!十桁もあるのに!」
「まさかまさか !ご冗談はよして下さいませ」
「全く!なんて執事だ!」
「身に余る光栄で」
「今のは呆れてるんだ! !」
朗らかな空気が流れる。しかし、それはどこか不自然な明るさだった。まるで、この後の何かから目を背けるような。
「──うん、じゃあ始めよう」
だが、やがてそれも限界が来る。声のトーンが一段階落ちた。
「・・・」
「どうした?」動かないトーマスにエメリーは尋ねた。
「・・・本当にいいのですね?」
「・・・」
「今ならまだ、冗談で済ませることも可能です」
「・・・トーマスはどう思う?」
「私としましては、──正直なところ、何とも言えません。これが正しいことかどうか、などと言う話は、曖昧で無責任です」
「けど・・・、これってつまり、誰かの命を利用するってことだろう?顔も知らない、どこかの誰かの」
「・・・坊ちゃまはお優しい。しかし、これは個人的な意見ではありますが──、それは我々が生きる上で、どうしても避けては通れない道だと思います。生きる上で、私たちは誰かを食い物にしているのです。踏みにじることで、生き長らえているのです。違いは自覚的であるか、そうでないか。それくらいしかないのです」
「どういうこと?」
「例えば、私は執事というお仕事でお給料をいただいています。そのお金で生きるための食事を買い、済むための家をいただき、服を買っています。──しかし、それは他の誰か、つまり、執事の仕事をすることが可能な誰かから仕事を奪って生きている、ということなのです」トーマスは燕尾服の襟を撫でると、どこか自嘲的な目でエメリーを見た。
「・・・」エメリーは少したじろいで、咄嗟に視線を地面に落とした。
「もしかしたら、その私ではない誰かはこの仕事をすることで、地獄のような貧乏から抜け出すことが出来たかもしれない。稼いだお金で誰かの命を救っていたかもしれない。・・・もしかしたら、死なないで済んだかもしれない」
「そんなこと、わからないじゃないか!」エメリーは勢いよく顔を上げる。トーマスは真っすぐに少年の目線を受ける。
「ええ、これは全て私の勝手な妄想で想像です。益体のない連想です。ですが、その可能性はゼロではない」
「・・・」
「──おわかりでしょうか。優しさや善意というものは、突き詰めれば、結局そういった話になってしまうのです。誰かを傷つけないという生き方は、自分を傷つけ続けることでしか成し遂げられないのです。それはとても辛く、苦しいことなのです」
「・・・でも」
「・・・出過ぎた真似をお許しください。ですが、私は決して優しさというものを否定したいのではないのです。それ自体は気高く、美しいものだと思っております。しかし、それは同時にひどく脆い考え方なのです。坊ちゃま──、いえ、エメリー様。それを踏まえた上で、どうされますか?」
再び、沈黙が満ちる。それは先ほどのものとは全く異質で重く、鋭いものだった。
「・・・わからない。僕には、とても難しくて・・・、よくわからない」慎重に、まるで鍋に浮かんだ灰汁を掬うようにエメリーは言葉を紡いだ。
「でも、やっぱり僕はこうしたいよ。多分、きっと、これから嫌な思いはするんだろうけど、それでも──、僕はケビンに心を持ってほしい」
「・・・そうですか。かしこまりました」
トーマスはそれきり、何も話さなかった。肯定も否定もせず、ただ黙って作業を進めた。
ものの十分ほどで、呆気なく全ての工程は全て完了した。エアーロックが外れる音がして、ガラスケースが開く。機械的な風が、ケースの前に立つ二人の頬を叩いた。
「・・・やあ、ケビン!調子は、どうだい?」エメリーは声をかける。その声色はいつもより少しだけ高く、明るいように、トーマスには思えた。
「──ええ、とても良好です。エメリー」
ケビンは、微かに笑った。