「・・・いい眺めだ」
柄にもなく、ワンは呟いた。地上二百メートルに位置する都庁の展望室は、テリエルとほぼ同じ高度に位置している。ワンは初めて、仇と目線が揃った。
「・・・」
展望室にはまだ誰もいない。セレモニー終了と共に解放される予定で、数分前まで何人かが点検や最終確認のために職員がうろついていたが、今はワン一人だけだ。
これが、最後のチャンス。
胸につけた無線機からは絶えず声が聞こえる。黙って持ち場を離れたワンを探しているようだった。黙って電源を落とす。もう、こいつらと会うこともないだろう。
「長かった。本当に」
携帯を握りしめる手に汗が滲む。
眼下に広がる東都の街は、お世辞にも綺麗とは言えなかった。あくまで復興が進んだのは都庁周辺のみで、遠くに見える手つかずの地域は、未だに荒れ果てたままだった。しかし、道路を埋め尽くす人の群れは、きっとここから再生が進んでいく予感を存分に感じさせた。
「・・・不愉快だ、とても」
何も知らない。知ろうともしない。お前らの服も、家も、車も、国さえも、満たされて、背負った気でいる何もかもが、お前たちの知らない屍の瓦礫の上に立っていることを、自分の名前すらない誰かの苦しみの上で作られていることを、知ろうともしない。
ワンが抱えるのは怒りではない。恨みでもない。それらは今、全く別のものに昇華されようとしていた。彼の内にあるのは義務感だった。
不条理を、不平等を、歴史や社会によって埋もれ、届かなくなった弱者たちの声を、恵まれて、望まれて生きてきた人間に教えなくてはいけない。その身をもってして、味わわせなければいけない。
世界から、自分たちを救わなければいけない。
そんな使命感が彼をひた動かしていた。
「・・・今、救ってやるから」
故に、彼の手に一切の躊躇いはなかった。
軽快な電子音が、終わりの始まりだった。
──まずは光が大気を駆け抜けた。
次に音が、爆風と、瓦礫が、競うようにして、団子のように群れる民衆を襲った。
無数の爆薬の一斉起爆による衝撃は、ワンの元にも悠々と辿り着いた。
「・・・っあ!!」
展望室のガラスを突き破り、ワンを数メートル吹き飛ばす。
全身が壁に打ち付けられて鈍く痛む。ゆっくりと立ち上がる。動くたびに骨が軋む音がした。
「・・・っ」
耳鳴りがひどい。痛む頭に触れると、ぬるりと気持ちの悪い感触がある。手のひらはベッタリと血で濡れていた。足を引き摺りながら、粉々になった窓の方へ向かう。
「・・・うぁ」
黒々とした煙で先は見えない。しかし、足元に広がる人々の様子はありありと見ることができる。
──死体。死体。子供の死体。死体。
叫び声と泣き声と嗚咽が混ざり合って響く。
爆発によって絶えず飛んでくる巨大なコンクリートの瓦礫は、全く無作為な誰かに高速で衝突し、いとも簡単に頭蓋や内臓を破壊した。
パニックに陥った観衆たちは上から見ると、蛇の腹のように奇妙に波打っていた。
「・・・ぅぅ」
これでいい。これでいいのだ。これは必要な救いであって、必要な犠牲だ。全くもって問題ない。
これで、いい。
「・・・ぁ」
ワンは自分に言い聞かせた。わかっていたことだった。この爆破によって多くの人が死ぬことは知っていた。そんなことはもう分かった上で、スイッチを入れたのだ。
仕方がないことだ。
どうしようもないことだ。
揺らぐな。揺らぐな。
だってこれは、自分で決めたことじゃないか。
自分で握ったハンドルに、切った舵に疑問を抱くな。
「・・・ああ」
──やがて、黒煙は消えていく。
その先に広がる景色が見えてくる。
「これは」
足元の阿鼻叫喚、その惨劇の向こう側。真っ直ぐ前に目を向ける。
「だめだ、もう」
何一つ変わらない。
初めて見た時の、三年前のあの日から寸分違わぬ姿形で、テリエルは未だ上空に浮かび続けていた。春の暖かな太陽の光を受けて、相も変わらず、黒々とした輝きを撒き散らしていた。
「はっ、ははは」
糸が切れた人形のようにガタガタと、ぎこちなく動きながらワンは笑った。彼はもう何も見たくなかった。何も知りたくなかった。一刻も早く、全てから脱出したかった。
それは、自分自身も含めてのことだった。
「──おいおい、逃げるなよ。お前が望んだ結果じゃないか」
「・・・は、は」
声がする。
殺した男の声がする。
半狂乱に陥るワンにマエダは告げた。
「多くの人を巻き添えにして、テリエルの破壊に失敗して、それで自分は一人惨めに狂ってはい、終わりか?本当に?はっ!冗談じゃない。逃げられると思うな」
「・・・ぅぅぁ」
「使命感、義務感だって?嘘をつくなよ。始まりは復讐心だろ。それもテリエルにじゃない。もっと曖昧で大きな何かに対する復讐心だ」
「・・・ぁぁ」
「よかったじゃないか。これで世界はお前を見てくれるぞ。クソの掃き溜めみたいな貧民街の連中じゃなく、右も左もわからないガキどもじゃなく、もっと多くの人がお前を知ることになるな?」
「・・・」
「お前は生きろ。苦しみながら生きろ。欲しいものは得たじゃないか。後は対価を払う番だぜ」
「・・・」
気づくとマエダの姿はもうなかった。
ワンは既に笑っていなかった。虚な目で、眼前の景色をただ眺めていた。火薬の匂いが、鼻腔にこびりついていく。
心は何故か、異常なほどに落ち着いていた。
「・・・もういいよ」
一言、男は最後にそれだけ呟いた。
──次の瞬間、崩れかけた展望室には、もう誰もいなかった。