穏やかな日差しが優しく照って、柔らかい風が肌を撫でて、人々は当たり前のような平穏を享受しながら休日を過ごしている。

東都は今日も平和だ。癪に障る。

「おい、ワン。行くぞ」

「・・・ああ」

 家族やカップルで溢れかえる公園をワンとマエダは通り過ぎる。背中に賑やかな声を受けながら、二人は公道に止めてある白いワゴン車の扉に手を掛けた。

「・・・どうした、早く乗れよ」

 助手席からマエダの声がする。ワンはドアを半開きにしたまま、雲一つない空を睨みつけていた。

「・・・ああ」

 目線は切らないまま、ワンは身体を滑らせるように運転席に座り込む。慣れた手つきでエンジンをかけると、ワゴン車はすぐに走り出した。

「まだ慣れないか?」マエダが徐に聞く。

「何がだ」

「あれだよ、あれ」フロントガラスの少し左上をマエダは指差した。

「・・・そんなことはない」ワンは目だけをチラリと動かし、すぐに前を向く。

「嘘つけよ。ビンビン来てるぜ。なんなんだ、あれは、ってな」マエダはこめかみをトントンと叩く。頭のデバイスが、ワンの感情波形を読み取っている、という意味だ。

「・・・そんなことはない」

「相変わらず強情だな。まー、でもわかるよ。十五年前は俺らもそうだったから。なんだあれは、ってな」そう言って、ケタケタと笑う。

「・・・」

 ワンはもう一度、今度はさっきよりしっかりと視界の左上、上空に浮かぶ黒い球体を見た。

聳えるビル群よりも高く、サッカースタジアムよりも巨大な物体が、落ちることも上がることもなく空中に鎮座している。日に当たって金属光沢で輝くそれは、時たま、表面がめくれるように剥がれ落ちていて、落下音が遠雷のように響いている。

 そして、この現状を当たり前のように受け入れている人々。

「・・・なんなんだ」思わず、ワンは零した。

「だから言ったろ」

「うるさい、黙ってろ」

「ほら見ろ、図星じゃないか!ははっ!」

 それ以降、車内にはマエダの揶揄う声だけが反響していた。ワンは聞いていないような、冷めた顔をしながら、少しだけアクセルの踏みこみを深めた。二人の乗った白のワゴンは吸い込まれるように、仰々しいフェンスで出来たゲートの中へと入っていった。

 ──十五年前、東都は封鎖された。

 何の変哲もない、普通の日のことだった。

突然、それは現れた。巨大な地震の後、その正体不明の巨大な黒い球体は、文字通り一瞬のうちに東都上空に出現した。あまりにも現実離れした異常事態によって街やネット、各種交通機関は著しく混乱状態に陥り、政府は異例の早さで非常事態宣言を発令する。実質的な戒厳令を敷き、地震による建物や道路の倒壊で地獄絵図と化した中で、軍隊による民衆の東都からの強制退避を進めた。その後、人の消えた東都は封鎖され、今に至るまで開放されていない。

「でも、そいつがとんでもない利益を産むってわかった途端、人が変わったように手のひら返しだもんな。現金なやつらだよ、全く」

「お前もだろ」

「まあな」

 何重にも重なったフェンスを抜けた先に広がるのは、ゴーストタウンと化した東都だ。

二人は十五年手つかずだった荒れた車道を走る。ハンドル越しに伝わる振動は、外の公道と比べるまでもなく大きく強かった。だが、これでも随分と整った方だった。一か月後に迫った東都解放に向け、多くの人員が復興活動に割かれている。辺りを見ると、至る所で作業着の人間が何かしらの作業をしているのが見える。マエダはそんな街の様子を昔のままだ、というが、ワンにとってはまるで見世物として作られたような、そんな無機質な冷たさを感じていた。人の熱がない死んだ街だ。

「着いたぞ、降りろ」

「へいへい」

 ワゴンが止まる。かつて都庁舎だった建物の前で二人は並び立つ。東都の復興はここから始まった。まだ荒れたままのビル街とは違い、コンコースは綺麗に均され、装飾されていた。ワンは幾何学模様の石畳の上で、左右の巨大なオブジェクトを見上げる。

右手には遥か聳える都庁舎、そして左手、上空に浮かんでいるのが──。

「テリエル」

 ワンは自分に刻み込むように呟く。この二年、もう幾度目かもわからない。

だが、その言葉の持つ感情は色褪せていなかった。

仇への怒り、そして恨み。

「ワン、行くぞ」

 声の方へ振り返ると、もう既にマエダは都庁に向けて歩き出しているところだった。ワンはもう一度テリエルを見、それからマエダの後を追った。

 

 東都へ諜報員として潜入する前、ワンは華那当局からを多くの情報を聞かされていた。

 小惑星テリエル、そしてそこから採取できるテリエリウムという金属の話、そして、チョウがなぜ殺されたのか、元凶は一体、何なのか。

「忘れるな。全てはあの小惑星、テリエル、そしてあの国が齎した事態だ」

「・・・」

 以前より明らかに生気を失ったワンに、初老の男は繰り返し説いた。諜報のための知識、技術を休みなく叩き込まれ、ワンは肉体的にも精神的にも疲労し切っていたが、どんなに追い詰められていようと、男の話は全て聞いていた。まるで怒りを絶やさないように、燃え盛る激情に薪をくべているようだった。

「テリエルがあるからチョウは殺された。幼児が殺されるときに発する感情はテリエリウムの精神伝播率を飛躍的に高める効果がある。そして、その過程が残虐であればあるほど、その効果は強くなる。伝播率の優れたものほど、より細かな感情をキャッチすることが可能になる。今頃、チョウの死で磨かれたテリエリウムは、どこかの小金持ちのアンドロイドのCPUにでも使われているだろう」

「・・・」

 ワンは男の挑発的な文言に対し俯いたまま返事をしない。なぜなら、この言葉を聞いたのはこれが初めてではないからだ。初老の男はほとんど同じ内容の話を何度もワンに浴びせた。訓練が終わるたび、食事の合間、時間があればワンを呼び出し、こうして悪辣な言葉を吐いた。それはもはや洗脳だったが、当のワン本人は自ら進んで男の言葉を傾聴していた。机と椅子しかない灰色の部屋──ワンが初めてチョウの死を知った部屋は、復讐心を刷り込みたい男と、復讐心を忘れたくない男の奇妙な利害関係で構築されていた。

「東都へ行け。東都に行って、全ての元凶を破壊しろ。あれとあの腐りきった国がある限り、無慈悲な犠牲者は増え続ける。次のチョウが生まれ続ける」

「・・・」

「これは復讐であり、制裁であり、また同時に救済でもある。そう、お前は救いに行くのだ。これは救出行動だ。忘れるな。正義はこちらにある」

「・・・」

「世界に知らせるんだ。奴らの平和は無数の亡骸の上に成り立っているということを」

 不意にアラームが鳴る。それは休憩時間の終わりを意味していた。ワンはスッと立ち上がると、まるでゴングを聞いたボクサーのように早足で部屋から出ていく。ドアが閉まる音が微かに反響する部屋で、初老の男は一人穏やかに微笑んだ。

 ──そんな日々は約二年続いた。

「・・・」

 東都に来てから三年。ワンは未だ衰えることのない怨嗟と憤怒を持ち続けていた。一刻も早く、あの忌々しい小惑星を堕とすことだけを考えて生きていた。そのための努力は惜しまなかった。信頼や職権、それを勝ち取るための文化的同化、馴れ合い。違う国の食べ物や言語を取り入れる程に、何か自分の中のアイデンティティが一枚ずつ剥がれていくように感じた。突き刺す以外の箸の使い方が完全に馴染む頃には、母国の言葉に違和感を覚えるようになっていた。

 だが、それでもやはり彼の中で、黒い熱は絶えず燃え続けていた。

「・・・よし」

 誰もいないオフィスビルの屋上で、ワンは一仕事を終えて額を拭う。膝立ちの格好で、足元のノートパソコンくらいの大きさの黒い箱を見下ろす。表面の緑色のランプは一度だけ緑に点灯して、すぐに消えた。それは正常に動作していることを表していた。

これは爆弾だ。

 直径百メートルを超える金属の球体を破壊するためには、生半可な火力では足りない。かといって、破壊するに足るほどの武器、兵器など持ち込めるわけもない。故に、こうして小さな爆弾を東都中に仕込み、一斉起爆することで条件をクリアするというのがワン、及び華那当局の作戦だった。

「・・・」

 ワンは宙に浮かぶテリエルを見つめる。心は重く高揚していた。それはさながら殺しの興奮と呼ぶべき心理状態だった。ワンは親指で額をトントンと叩き、心を静める。基準値を超えた感情の揺らぎは異分子として検出される危険性がある。入国した当時ならば問題はなかったが、デバイスが体に馴染んだ今、極端に攻撃的な感情は“思考犯”として捕らえられてしまう。

「・・・よし」

 数分後、普段通りに戻ったワンはビルを後にした。監視カメラ含め誰にも見られていないことを確認して、持ち場に戻る。

「おう、便所は済んだか?」道路のガラス片を片付けながら、マエダは言った。

「ああ、待たせてすまない」

「別にいいよ、いつものことじゃねえか。ま、最近は特に長い気もするけどな!」

「・・・」

努めて何食わぬ顔と心のまま、ワンは仕事に加わる。しかし、ほんの少しだけ、表情の感覚にズレがあることをワンは自覚していた。その原因は明確だった。

計画の決行日が近づいているから。ただそれに尽きる。

以前ならば感情を静めるルーティンは数秒で済んでいた。しかし、今は数分以上かけなければ通常の精神状態に戻れなくなっていた。これほどまでに感情が燃え上がっているのはワンにとっても想定外だった。

「お、どうした?ワン。まだ腹痛いのか?」

「なぜそう思う?」感情のステータスは正常のはずだ。

「何かいつもより、しかめっ面してたからな」

「・・・そんなことはない」

「はは!そうかよ、まあそれならいいんだけどな。案外、自分がどんな面してるのかって、自分じゃわからないもんだぜ」

「・・・肝に銘じておく」

「そうしてくれ」

 朗らかに笑って作業に勤しむマエダをワンはチラリと伺い見る。

 都庁職員として潜入した当時から、事あるごとにワンはマエダと行動を共にしていた。仕事のサポートや文化圏の差異など、彼はワンに対して親切に接し続けたし、その様子は傍から見れば、相棒やバディと呼べるもののようにすら思えた。

 しかし、ワンにとって誰かと長く接するということは、素性や思考がバレる可能性を孕んだ、率先して排除するべき不安因子でしかなかった。

「・・・」

 ──場合によっては、強硬手段に出る必要もあるかもしれない。

 マエダの鋭い洞察は今までも何回かあった。それが勘なのか、はたまた真意に気がついているのかを読み取ることはできない。恐らく、というよりも、確実に、マエダにワンの思考を勘繰られているということはないだろう。こちらが下手に訝しむアクションを起こすと、逆にそれが火種になりかねない。だが、今の状況、心を制御しきれていない状況では、そんな微かな不安さえも、計画の綻びになりかねない。ワンはあくまで業務処理をするような、パターン化された思考を走らせていた。

 何も永遠に隠す必要があるわけではない。作戦までに何かを悟られないことが最優先だ。その条件下であれば、人を一人消すということは決して不可能ではない。

「・・・」

 ──東都解放まで二週間を切っていた。